林復斎

林 復斎(はやし ふくさい、寛政12年12月27日(1801年2月10日) - 安政6年9月17日(1859年10月12日))は、江戸時代末期の儒学者、外交官。幕府朱子学者林家当主。通称は大学頭。諱は韑(あきら)。字は弸中。復斎は号。他に梧南、藕潢などとも号する。父は林述斎。兄に林檉宇、江戸町奉行を務めた鳥居耀蔵がいる。岩瀬忠震、堀利煕は甥。林鶯渓、林学斎の父。生涯林家を継ぐ寛政12年(1800年)に林述斎の6男として生まれる(ただし旧暦12月生のため、西暦換算では翌1801年となる)。文化4年(1807年)親族の林信隆(林読耕斎の子孫)の養子となり、3年後に家督を継ぐ。文政7年(1824年)紅葉山文庫の書物奉行として勤務。『重訂御書籍来歴志』『重訂御書籍目録』などを編纂。天保9年(1838年)には二ノ丸留守居に転じ、以後、先手鉄砲頭、西丸留守居などを歴任、能吏として知られた。また併行して昌平黌(昌平坂学問所)の学問所御用も兼務、総教(塾頭)となっている秀才でもあった。嘉永6年(1853年)、甥で本家を継いでいた林壮軒(健)が死去。急遽本家を継ぐことになる。小姓組番頭次席となり、大学頭と改名。54歳にして林家11代当主となった。折しもアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督率いる黒船が浦賀に来航し、世情が騒然していた。復斎は幕府に命ぜられて、永禄9年(1566年)から文政8年(1825年)頃までにいたる対外関係史料を国別・年代順に配列した史料集『通航一覧』(350巻)を編纂。また各藩大名の歴史をまとめた『藩鑑』も編集。両書を編纂した功績で同年12月に賞賜されている。ペリー艦隊との交渉翌安政元年(1854年)正月にペリー艦隊が再来。復斎は家督を継いで間もない慌ただしい時期であったが、以前からの有能ぶりや異国との交渉史への通暁が買われて、町奉行井戸覚弘とともに応接掛として老中阿部正弘から任命され、横浜村で交渉にあたった。実際の交渉は漢文の応酬で行われたため、復斎はその漢文力を買われ、主な交渉はすべて任されることとなる。復斎はすでに当時の諸外国の動静を理解しており、鎖国(海禁)体制の現状維持は困難と考え、異国船への薪水食料の給与程度はやむを得ずと判断し、ペリー艦隊との交渉でも柔軟に対応した。ただし、通商要求に関しては時期尚早として断固拒絶する。長期にわたった

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